「門戸を開く」か、「大衆におもねる」か

「難しい事を易しい言葉で判りやすく書く」事について考えている。根がひねくれ者なので「ポピュリズムが胸糞悪い」と言われると、肯定派に回りたくなって、id:kany1120:20070913:1189694768のコメント欄のような、微妙に論点をずらしつつ「わかりやすく書いてもいいじゃないか」みたいなセリフが出てきたのですが、別に私は易しく書くこと至上主義者ではありません。書き方を「易しく」することで、零れ落ちるものがあることは知っています。


たとえば、同じ線形代数を学ぶにしても、

すぐわかる線形代数

すぐわかる線形代数


この本で学んで得られる理解と、
線型代数入門 (基礎数学 (1))

線型代数入門 (基礎数学 (1))


この本を読んで得られる理解は、深さや正確性がまったく異なります。


それは、実際に取り扱っている広さ・深さの違いだけでなく、本質的に異なるものです。1冊目の本は数学において重要な論理的な説明を省いて、とりあえず計算できればいい、難しい論理まで理解しなくても、直感的になんとなく理解すれば良いというスタンスです。それに比して2冊目の本は、基本的に「正しい」ことしか書いていません。逆にいうと、正しくないことは書いていないので、その論理の隙間は自分で手を動かして確認しないと、理解できません(直感的になんとなくわかるような書き方はされていません)。


しかし、それでも、私にとって、1冊目の本の価値で得られた「なんとなくの理解」は、数学から逃げてしまわずに取り組むきっかけになりました。こういう経験が少なからずあるので、私は、易しく、わかりやすく、書いた文章の存在価値もあると考えるのです。興味を持つ為のきっかけを作る、すなわち入り口:門戸を開くためには、多くない量の努力で理解できるような文章が求められます。私自身は結局、数学専攻にも関わらず数学が苦手なままの困った学生だったので、それを「大衆(敢えて謂う「衆愚」!)におもねる」と表現されてしまうと、「まあ、そうだね」と言わざるをえませんけれど。


こんなことを考えていたら、翻訳家 山岡洋一氏の「下に媚びるというのは、負ける路線だと思う」という言葉を思い出したので、備忘も兼ねて引用。

下に媚びるというのは、翻訳の中身についてもそうだし、翻訳教育産業も全部そうなっているわけです。とにかく、下に合わせて、下に媚びを売らなければならない。みんなそうなっているけれど、逆ではないのかと思うんですよ。なんでそんなことやらなければならないのか? そんなことをしても面白くも何ともないでしょう。

すごいものに憧れるんだったらわかりますけど。たとえば、イチローに憧れてみなが大リーグを観ているわけでしょう。でも、自分があんなふうにできるとは誰も思ってはいない、いくらなんだって。野球少年だってそんな非現実的なことは思ったりしないわけです。

下に媚びる風潮というのは、たとえていうと、草野球を見せようとしているようなものです。「簡単なんですよ、怖くないでしょう、みんなで参加しましょう、ボールに当たってもぶつかっても痛くないから大丈夫ですよ」と言って。

翻訳という仕事に自信と誇りを持とう。山岡洋一さん