2007年の終わり

akipponnに会って、高校時代の友人に会って、実家に帰って、掃除して、いまいち実感が湧かないけれど、2007年が終わるらしい。西暦年が1つ進むからといって何かが変わるわけではないのだけれど、区切りをつけることは大切だと思う。

昔、親類に「学生のうちは進級や進学で自然と区切りがつくけれど、大人になると自分で意識しないと区切り目がなくなっちゃうよ」と言われた。まったくだ。気がついたら時が過ぎて、気がついたら周りが変わって、気がついたら自分も変わって、「こんなはずじゃなかった」と言っても、時計の針は戻らない。

ただ無意識に生まれて、ただ無意識に時を過ごして、ただ無意識に死ぬ。それも悪くはないかもしれない。でも、私はそうは思えない。まだ前に進みたい。遠くに行きたい。ここじゃないどこかに、辿り着きたい。

諦観(「ていかん」もしくは「たいかん」)

↑の文章で「そこまで諦観を抱けない」と書きかけた。が、調べてみて、「諦観」=「あきらめる。しかたがないと断念する」という意味は誤用であることを知った。「諦観」の正しい意味は「あきらかに真理をみる。あきらかに本質をみる」。仏教の言葉らしい。

行灯でアキラメておれば、今日の電気や蛍光灯は発明されなかったであろうし、ラジオでアキラメておれば、テレビは造られなかったでしょう。只今の自己でアキラメてしまえば、その人の進歩向上はなくなってしまうでしょう。確かに、このような意味のアキラメは、我々の敵です。

しかし、仏教で教えるアキラカニミルの諦観の教えは全く異なっています。先述のように、大宇宙の真理である因果の道理をアキラカニミヨと教えているのですから、無限の進歩発展向上努力をうながすものなのです。

一切は、物事の因果関係をアキラカニミテ今日まで進歩発展して来たものです。

@nifty:@homepage:エラー

諦める=断念するという意味は後から発生したものらしい。知らなかった。

「あきらかに真理をみる」、良い響きだ。それなら、ぜひ諦観を持って生きていきたい。まだ、見えていないことが多すぎる。