世界の遠さについて ー 或いは、xとyの距離が0になるのは、x=yのときに限る話

都会で一人暮らしをしていると、寂しさを感じる。「ただいま」を言う相手がいない。食事を共にするする相手もいない。ひとりを感じる機会が多くて、単純に寂しい。でも、そう感じない人もいる。どうやら私はさみしがりやらしい。

田舎で親のいる実家に住んでいると、それとは別の意味で、寂しさを感じる。両親は健在なので、話し相手はいる。むしろ話したくない気分のときでも話しかけられて、面倒と感じることすらある。そのいっぽう、実家にいると、なんとなく世界から遠くなったような気分を感じて、寂しい。

こういう思いを、ある人にふと漏らしたところ、「世界が遠いって、どういうこと?」と反応をもらった。


「世界が遠い」という感覚は、「東京が遠い」「職場が遠い」という物理的事実とはちょっと違う色合いがある。そういえば、まだすねかじりの学生だったときも、私はこの感覚を抱いていた。それが嫌で、実家を出たかった。

家を出て、遠くに行って、知らない世界を見たかった。自分の力で「世界」との距離を縮めたかった。寂しさを、どうにかして、解消したかった。

でも自分が「世界」と表現していた、人が集まる都会に住んでみて、別の寂しさに気がついた。

都会にいると「世界の遠さ」はあまり感じない一方、人に囲まれているのに誰とも意思疎通できていない…ような、今までとは違う「遠さ」を感じた。使い古された表現を使うなら「東京砂漠」なのだろうか、または、いうなれば「他者の遠さ」なのだろうか、世界との乖離感があった。

いろいろな「何か」に囲まれていても、自分と「何か」の距離は、決してなくならない。距離は、いくら減らしていっても、ゼロにはならない。自分と「何か」が一体化しない限りは。

……ということかもしれない。


ところで、数学的な「距離」の定義は、こうなっている。

実数値関数 d: X × X → Rが、以下の条件を満たす時、dを空間X上の距離関数あるいは距離という。
・非負性:d(x, y) ≥ 0
・同一性:d(x, y) = 0となるのは、x = y のときに限る
・対称性:d(x, y) = d(y, x)
・三角不等式 : d(x, y) + d(y, z) ≥ d(x, z)

ここでは「d(x, y) = 0となるのは、x = y のときに限る」つまり「距離がゼロになるのは、x=yのときしかない」ことに注目しよう。大したことではない。さっきも書いた「自分と「何か」の距離は、決してゼロにはならない。その「何か」が同一のものでない限りは」という、しごく当然の話を、数式を使って表現しただけだ。


表現を変えると、世界の見方がちょっと変わる。

私と私じゃないものの間には、常に距離が存在する。その距離は、物理的距離だったり、心理的距離だったりする。

物理的距離は、数字で測れる。数字で測れるということは、指標にできる。ある値以上だったら「遠い」、それ以下だったら「近い」と判断できる。いっぽう心理的距離は(私が知っている範囲では)数値化できない。数値化できないそれを、感覚値で「遠い」という言葉で表すのなら、私と「何か」の距離は、いつも「遠い」。


誰か他のひとにとっては、「私」と世界の距離はいつも「近い」のかもしれない。「近い」か「遠い」かを計測する手段がないのだから、どちらも正解で、どちらも間違っている。答えが出ない問題を悩んでも、どこにもたどりつけない。

答えが出ないなら、自分なりの「ものさし」をつくればいい。

大人になるということは、自分の「ものさし」を持つことだと、いつか誰かが言っていたことを思い出した。