表現すること

写真置場のFlickrの会員更新をしていないので、昔の写真が見れなくなっています。更新手続きをすればまた見れるようになるので、気が向くまで放置しようと思っています。なぜ気が向かないのだろう?とずっと考えていますが、うまく答えが出ません。

  • 最近写真がうまく撮れないので、公開したくない

これも理由のひとつですが、

  • 自分の写真を「誰か」が見ているのが気持ち悪い

という点が大きいです。


私はインターネットが好きなほうで、情報のオープン化(共有化?)にも肯定的なほうですが、頭で考えるのとは別のところで、若干の気持ち悪さも感じることがあります。誰が見ているかわからないところで何かを公開して、それが誰かの目に触れて、何かの影響を及ぼす。それは素敵なことですが、気持ちが悪いとも思います。


「私は、画面の向こうのあなたを、知らない」という事実、そして「あなたは「私」を知らないけれど、「私」を想像することができる」という事実が、ただ感覚的に、気持ち悪いのです。


仮にもメディアの片隅に住む人間として、よろしくない感受性かもしれません。


弁解がましくなりますが、私が「著者」ではなく「編集者」を選んだ理由のひとつは、自分がこういう感覚を持ってしまうという点に由来します。何かを表現して発信する人は、知らない誰かに読まれ、その誰かに「知らない自分」を想像されることに耐えねばなりません。それをうまく利用して、読者を増やすことも、表現者として食べていくための痛みのひとつでしょう。ですが、私はその痛みを引き受ける覚悟を決めていません。


だから、私は表現者にはなりたくないのです。ですが時折、誰かに何かを伝えたいとも思います。この矛盾をうまく止揚できなくて、行ったり来たり、無責任なデータを撒き散らかしている次第です。

追記

しかし「あなたは「私」を知らないけれど、「私」を想像することができる」という事実は、向かい合ったコミュニケーションであっても、同じことかもしれません。そう考えると、生きること=表現するなのでしょうね。