住む世界

10歳くらいのときだったか、中学・高校は公立に進みなさいと親から言われたことがある。「学力にばらつきがあるのなんて当たり前だし、世の中色々な人がいるんだということを知っておいたほうが良い」と言っていた。そのころは「そんなもんかね。ま、私立で行きたい学校もないし、学費も安いし、公立でいいや」と軽く聞き流していたけど、最近その言葉の意味が、重みを伴ってわかるようになってきた。


外側から見える生き方だけをとっても、正社員として働いている人、派遣社員として働いている人、アルバイトをしながら他のことをしている人、いずれは男の子に養ってもらえばいいやと思っている人、ニートしてる人、ずっと学生してる人、えとせとら、色々な人がいる。内側の考え方の領域まで踏み込むと、同じ正社員をしている人でも仕事をどれくらい大切にするのか、そもそも何故働いているのかだけで切っても千差万別。社会科学者でもない私は、カテゴライズする努力すら放棄してしまっている。確かに言えることは、「世の中色々な人がいる」。


幸いなことに、私には思い出を共有する友人がいる。しかし同じ空間で同じ出来事を楽しんでいた時があっても、違う生き方を選んでいる友人と私では、ずいぶんと見える世界は違うのだろう。抽象的な表現しかできないが、会話をしていると、言葉が噛み合っていないような気がすることが、少なくない。前々から思っていたことだけれど、働くようになって、さらに明確にそれを感じるようになった。


「住む世界が違う」という表現がある。差別的側面もある言葉だが、本当に字面どおりの意味で「住む世界が違う」という状態は、存在する。「住む環境が違う」といったほうが、誤解を招きにくいかもしれない。環境が違えば、考えることも、使う言葉も異なってくる。友人が話す日本語と私が話す日本語は、同じ文法構造と同じ単語データを持った言語だけど、ひとつひとつの言葉の指し示す意味、言葉の裏にある意味、暗黙の前提等が、少しずつ異なっている気がする。おそらく気のせいではない。「住む世界」が違う友人と、言葉というツールを使ってどうコミュニケーションするか? ……この問題について考えるとき、冒頭の、親から言われた言葉が身に染みてくる。


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こんなことを親に話そうとしたら、「そんなこと言ったっけ?」と返されたので、ブログにポストしてみる。ちなみに写真はベトナムのホーチミンで食べたポークソテーとパンケーキ(クレープ)。本文と全然関係ないけど、おいしそうでしょ。