3月11日から今まで
11日昼、勤務中に地震発生。自分でTwitterを見て事の重大さに気付く。仕事をかたわらにニュースサイトから目が離せなくなる。10分後に同僚が「look!」と津波ビデオを見せてくれた。そこで「地震おしゃべり in シンガポール」に書いたような会話をした。
週末、何も出来ないのだから気にしても意味がない・・・と思いつつもTwitterやニュースサイトから目が離せない。日本にいる友人や家族に電話やメールをした。日本人に会うたび地震の話になった。話さずにはいられなかった。誰しも遠い異国にいて何もできない我が身の無力さを感じる、でもニュースを見るのを止められないと口にしていた。海外にいる日本人の気持ちを綴っている文章としては、こちらがとても的を射ている。ぐちゃぐちゃになった自分の頭の中を文章に書き下してもらったような気持ちで、ありがたかった。
3月16日、予定通りわいわい@シンガポール開催。参加者から募金をつのり、自分のお金と会わせて日本赤十字に募金した。
3月17日、村上龍がNew York Timesに寄稿した文章(日本語訳はこちら)が素晴らしかった。Facebookにポストしたら複数の同僚が「Like」してくれた。
18日くらいまで1週間ずっと、寝ても覚めてもニュースを見ていた。17日にシンガポールで行われた大きな日本応援イベントに行ったり村上龍の文章を読んだりした頃からちょっと吹っ切れて、出来るだけニュースを見ないように心がけるようになった。
http://twitter.com/#!/kany1120/status/48696872545685504:twitter:detail:left
Asmodeus-DBさんによる「東北関東大震災で義心を感じる人へ 持続不可能な感情と継続可能なシステムについて 」を英語に翻訳した。「自分のことすらままならない人が他人を救うなどできませんし、楽しくないことは継続することもできません」という文章が印象に残っている。
シンガポール人図書館員ブロガーの友人Ivanと震災についてオンラインで話した。彼はその一部をブログに取り上げてくれた。
地震が発生してニュースで取り上げられる日々が続き、周囲の日本人以外の友人と震災のことについて話す事が多くなるなかで、自分にとって唯一の中東出身の友人であるイラン人Sのことを何度も思い出した。彼も戦争や核開発についてニュースで自国が取り上げられるときに、自分が今感じているような気分・・・”ニュースで大々的に自分の国のことが取り上げられる、でも自分はそれ(ニューストピック)について何かが出来る力があるわけではない、ただの一国民にすぎない。それについて友人から質問されたり、逆にそれについて触れないように気を遣われたりする。自分が国を代表しているわけではないが、質問相手にとっては自分が「唯一の日本出身の友人」かもしれない。だから祖国の印象を悪くするようなことは言いたくない。自分は日本語がわかるから相手よりもたくさんの情報を知っている。だから楽観的にも悲観的にもなれる。いっぽうで主観的にはとても不安・・・と同時に、東京にいる家族は意外なほど普段通りだった。どういうふうに言葉を繋げばよいのだろう?・・・”という気分を感じたことがあるのだろうか?と思いを巡らせた。今までの自分に、相手の立場を想像する力が大いに欠けていたことを実感した。
ひとまず今までの記録。主に行動面について。原発についてどう思うかとかはちょっと難しすぎる。現時点で言えることは「頭が動かないなら発言するべからず」、自戒を込めて。