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日本語が亡びるとき

book

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗

筑摩書房 2008-11-05
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おすすめ平均

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インターネット(というか、はてな界隈?)で話題になっていた本。水村美苗という耳慣れない小説家の書いた本だが、小説ではない。日本語、もしくは日本文学に関する評論書の模様。敬愛する江島健太郎さんまで

もしあなたが本当に日本と日本語を愛し、この世界のゆく末がどうなるのかを知りたいと思っている、知的好奇心の旺盛な人であるならば、タイトルに騙されず一読して欲しい。その価値はあると申し上げておこう。

http://japan.cnet.com/blog/kenn/2008/11/10/entry_27017805/

とおすすめしていたので、読んでみた。娯楽ものではないし、著者の持つ偏りの強さを感ずるところが多く楽しくはなかったけど、議論ののりしろの大きい、面白い本だった。また、私にとっては知らないことがたくさん書いてあり、好奇心を満足させる内容だった。

以下、内容紹介しながら感想文。長いです。

1章「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で描く人々」

著者がアイオワ大学で行われたIWP(International Writing Program)に参加したときのエピソード、出会った各国の小説家・詩人たちにまつわる小話が面白かった。ただし著者がいろいろな国の作家と会っての感想文という趣なので、ブログで読めばよいレベル・・・という感もある。
たとえば、英語を公用語とされている国(アフリカのボツワナ)出身の人が英語で書くことや、モンゴル人がロシア語を操ること、そしてリトアニア人も同じくロシア語を話し、米国の地で年老いたモンゴル人と、20代のリトアニア人が仲良くなるきっかけになりうること、またノルウェー人が(現在普通に使われている「ノルウェー語」ではなく)ノルウェー民族の書き言葉として人工的に作られた言葉「ニーノシュク」という言葉を使って小説を書くこと。これらは、自分の想像力が及ばない範囲の話だった。

また、海難記で取り上げられていた下記の部分を読んで、首をかしげてしまった。

もちろん、今、日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるでしょう。私が、日本文学の現状に、幼稚な風景を見出したりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。実際、そういう人のほうが多いかもしれない。だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。文学も芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人に向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。

古典を愛する気持ちはよい。確かに、良いものは良いのだから。でも、上記の文章から読み取れるのは、ただの懐古主義だと思う。水村美苗が文学者であるというならば、「日本文学の現状」がどう幼稚なのかを言葉で説明してほしい。何をそんなに嘆いているのかがわからないし、海難記の書いている

日本文学の「幼稚な風景」を示す作家の具体名を挙げていないが、「日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるでしょう」という言葉からわかるとおり、村上春樹の存在はさすがに意識しているだろう。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20081112#p1

という指摘と近しい感想を私も抱いた。遠まわしに現状を批判するだけで、具体的な論に踏み込まないと、「何を見てあなたはそう言っているの?」という印象を与えるのだな。

2章「パリでの話」

著者はフランス語が好きらしい。そして、フランス語はある種の権威をもっていた言語だった。しかし、、、という流れ。著者が、パリで行われたシンポジウムで話したという「日本近代文学--その二つの時間」の内容がおもしろかった。

西洋と非西洋のあいだにある非対称関係はこれからもずっと存在し続ける。それはあたりまえです。でも、今、その非対称関係に、それと同じぐらい根本的な、もう一つ新たな非対称関係が重なるようになったのです。英語の世界と非・英語の世界とのあいだにある非対称関係です。

そして、彼女の「私小説 from left to right」に仕組まれた、英語にだけは翻訳できない文体にも興味を抱いた。(日本語と英語の入り混じった文体なので、英語に翻訳すると「英語と非・英語」の対比を描き出すことが不可能になってしまう。)

・・・が、この章でも、年寄りの回顧主義だなあ・・・と思う記述が続く。

フランス語で書かれた文学と日本語で書かれた文学とを比べるのを可能にした条件--それは、日本語が「亡びる」のを嘆くことができるだけの近代文学をもっていたという事実である。しかも、その事実が、世界の読書人の間で一応知られているという事実である。

いや、近代文学がすごいのはわかるんです。でも、この人は、今に目を向けようとしていない。

一方で、ふと心に浮かんだ確信がある。文学としての「日本語」が亡びる日よりも、理工系教育の中での「日本語」が亡びる日のほうが早く来るだろうな、ということ。いまは「日本語でも勉強できる猶予期間」が、学部卒業まであるみたい(?)*1ですが、それはだんだんと早まっていくのでしょう。

3章「地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々

ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」:文学研究者のあいだでは必読書らしい。この本を起点に、<普遍語><現地語><国語>という言葉を定義し、言語と国家とのかかわり、これから<国語>がどうなるのか、そして<国語>としての日本語がどうなるのか、という議論が展開されていく。

学問とは<読まれるべき言葉>の連鎖にほかならず、その本質において、<普遍語>でなされてあたりまえなのである。

ヨーロッパが<国語>の時代に入って、いったい何が大きく変わったのか。それは、人が<自分たちの言葉>で書くようになったということにほかならない。

ここでいう<自分たちの言葉>とは西洋語圏の3大語:フランス語、ドイツ語、英語のこと。著者はこれを<三大国語>と呼ぶ。

非西洋語圏の学者がヨーロッパの学者のように<三大国語>を読むのは、困難だが不可能ではない。だが、いったいかれらは何語で書いたら良いのか。かれらは<自分たちの言葉>で書いてそのまま<読まれるべき言葉>の連鎖にはいるわけにはいかない。
(中略)
かれらは、学者として、<読まれるべき言葉>の連鎖に入るためには、<外の言葉>で読むだけでなく<外の言葉>で書くよりほかにない。

これが著者の問題提起の出発点のようです。この憂いは、私も想像がしたことがあり、共振する部分がありました。
自分たちの言葉で書いたのでは、読まれる人が限定されてしまう。人に読んで貰うためには、自分のものではない言葉を使って書かねばならない。数世紀前には、それは当たり前のことだったのだが、時代が進んで技術が進んで世界が平らになった結果、またその時代に戻ってしまうのか・・・?

4章「日本語という<国語>の誕生」

日本の近代文学のはじめ、明治維新のころの日本語動向と福田諭吉を通して、日本語と(日本の)知識人について論じている。
福沢諭吉のエピソードの抜き出しと、その考察が面白い。

なぜそんなにまでして「叡智を求める」のかと問われても、諭吉自身よくわからない。強いて問われれば、知的スノビズムや精神的気位というぐらいの答えしかないのである。


然らば何の為めに苦学するかと言えば一寸と説明はない。(中略)名を求める気もない。(中略)之を一言すれば--西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様な事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云ふ気位で、唯六(むつ)かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽と云ふ境遇であったと思はれる。

数学部屋の先輩が「む・・・むずかしい! でも、難しいから面白い!」とつぶやいていたことを思い出しました。

また、他にも福沢諭吉の小話がいろいろ紹介されていたのですが、いやはや昔の人はインターネットもないのによく勉強していたのだなあ・・・と呆気にとられました。

5章「日本近代文学の奇跡」

夏目漱石を軸に、日本の近代文学(明治維新〜昭和時代まで)を眺める。<国語>として成熟した文化(文学)を花開かせた、ちょっと昔の日本語・日本人賛美の章。

広田先生は、洋行をしたこともないのに、誰よりもよく西洋のことを知っている。誰よりもよく西洋語を読んでいるからである。(中略)このように何でも知っている広田先生は、よくいえば、優れて<叡智を求める人>である。だが、悪く云えば、雑学のかたまりである。

広田先生は、西洋語を誰よりもよく読んでいるのに何も書かないのではなく、西洋語を誰よりもよく読んでいるから何も書かないのである。西洋語を誰よりもよく読んでいるからこそ、学者として、日本語で書いてそれを公にすることの「無意味」を、<世界性>をもって、知りすぎているのである。

その広田先生の対局にある登場人物がいる。同じ学者でも、物理学者の野々宮君である。(中略)だが、広田先生とちがって、野々宮君は、周りの人には知られていなくとも、同じような研究をする外国の物理学者には知られている。「其の道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名前を知ってゐる」。「野々宮さんは外国ぢや光つてる」。科学者の野々宮君は、西洋語で読み、西洋語で書いて発表することができる。西洋語で書いて発表するといっても、限りなく数学的言語に近い言葉で済むからである。

なるほど、文学者である著者から見た「自然科学を学ぶもの」への印象は、こういうものなのか!
数学的言語(数式のことを指すのか?)が<普遍語>の地位を占めている自然科学は、確かに文学より翻訳しやすいし、今日では英語で論文を書くのが主流になっている。先日ノーベル物理学賞をとった益川先生のような先生*2も稀にいるけど、英語で論文を書かない=広く読ませる気がない、と言ってもおかしくないような状況になっている。とはいえ、教育目的に書かれたものや、科学史的なもの(ex. 和算本、伝記本)は日本語で書かれ続けるのでしょう・・・と自分は思っていますが、これから先、どうなっていくのでしょう?? 日本語での教育が初級レベルに限定されていく傾向にはなるでしょうが、どこまで行くかの予想はむつかしい。情報科学やコンピューター技術は、はじめから英語で学んだほうが早いような気もする。

6章「インターネット時代の英語と<国語>

悪循環がほんとうにはじまるのは、<叡智を求める人>が<国語>で書かなくなるときではなく、<国語>を読まなくなるときからである。<叡智を求める人>ほど<普遍語>に惹かれてゆくとすれば、たとえ<普遍語>をかけない人でも、<叡智を求める人>ほど<普遍語>を読もうとするようになる。
(中略)
繰り返すが、広い意味での文学が終わることはありえない。
だが、英語が<普遍語>になったことによって、英語以外の<国語>は「文学の終わり」を迎える可能性がほんとうにでてきたのである。すなわち、<叡智を求める人>が<国語>で書かれた<テキスト>を真剣に読まなくなる可能性がでてきたのである。それは、<国語>そのものが、まさに<現地語>に成り果てる可能性がでてきたということにほかならない。

こういう危惧を日本の小説家が抱いているというのは興味深かった。3章でも出てきた「学者として、<読まれるべき言葉>の連鎖に入るためには、<外の言葉>で読むだけでなく<外の言葉>で書くよりほかにない。」という感覚は、文学者にとって死活問題に他ならないわけで、そこらへんの危機感は自然科学関連に携わる者より深くて必然。にも拘わらず、この書籍が話題を生むといことは、それを叫ぶ人が少ないのかしら?と感じました。インターネットを見ていると、とてもそうは思えないのだけれど、、、どうなのでしょう。

7章「英語教育と日本語教育

自分的に感ずる部分が少なかったため、割愛します。

読み終えて

私はビジネス書、科学書、デザイン・アート関連書や宗教書など、さまざまな分野の本を読むように心がけているものの、文学評論書を読むのはほぼ初めてだった。この本・筆者の議論展開はあまり好きではないけれど、知的刺激として非常に面白かった。
fuzzyさんが

水村氏は(予想していたよりも)教養がとても高い人物でした。まいりました。

http://d.hatena.ne.jp/fuzzy2/20081112/p3

と書いていらっしゃる通り、水村美苗は非常に博学な女流文学者でしたので、自分の勉強不足を感ずることも多く、刺激的な読書になりました。
ちょっと脱線しますが、

これからは英文のフォントや組版の技術も知っておいた方が得らしいです。

http://d.hatena.ne.jp/fuzzy2/20081112/p3

この本を読んでこの帰結に行き着くfuzzyさんはスゴい(笑)。積ん読しっぱなしの「The ACS Style Guide」に思わず目をやりました。*3

The ACS Style Guide: Effective Communication of Scientific Information 3rd Edition (An American Chemical Society Publication)The ACS Style Guide: Effective Communication of Scientific Information 3rd Edition (An American Chemical Society Publication)
Anne M. Coghill Lorrin R. Garson

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また、5章などから一人の日本文学者から見た自然科学分野の印象を知ることができ、そこから学問の動向に思いをはせることができ、得難い経験をできました。
この本を手にするきっかけを与えてくれた梅田さん*4、中山さん*5、fuzzyさん*6、仲俣さん*7、江島さん*8のブログに感謝します。

追記

タイトル直しました。ご指摘ありがとうございます。>kanimasterさん、shiumachiさん

*1:東大・京大ですら、学部レベルでは英語で論文を読み書きできなくても卒業できると聞きました……そもそも卒論がないとか。信じ難い。

*2:[http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20081008006.html:title] しかし、益川先生も「これからは国際化の時代だから、英語は絶対勉強してください」と言っている。[http://www.sankei-kansai.com/2008/10/09/20081009-002908.html:title]

*3:「The ACS Style Guide」は組版というより、学術論文のスタイルに関する本です。ケンブリッジのButcher, シカゴスタイルのマニュアル、MLAスタイルのハンドブック、といろいろ手にしてきましたが、自然科学系のスタンダードはACSらしい。・・・しかし数学はまたちょっと異なるという説も。

*4:http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1

*5:http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20081112/p1

*6:http://d.hatena.ne.jp/fuzzy2/20081112/p3

*7:http://d.hatena.ne.jp/solar/20081111#p1

*8:http://japan.cnet.com/blog/kenn/2008/11/10/entry_27017805/