何故科学出版はまだ崩壊していないのか?

今年はじめに読んで以来、あまりの面白さにこっそり興奮していたScholarly Kitchenの「Why Hasn't Scientific Publishing Been Disrupted Already?」という記事を取り上げます。
http://scholarlykitchen.sspnet.org/2010/01/04/why-hasnt-scientific-publishing-been-disrupted-already/

オリジナルは2010年1月4日にアップされ、del.icio.usで本日現在143件ブックマークされています。また最近、欧米系の同業者が「これは読んだほうがいいよ」とプレゼンで触れていました。やっぱり独り占めにするにはもったいない、興味や関心の近い人にも読んでもらいたいので、拙訳ながら、ざざっと超訳&紹介します。きちんとした日本語訳ではなく、あくまで私が重要だと思った部分の抜粋+超訳なので、興味を持った人は是非オリジナルを読んでみてください。

なお、今回はScientific Publishingを「科学出版」と訳していますが、オリジナル記事ではいわゆるSTM出版(Science, Technology, Medical Publishing)を指しているようです。

Why Hasn't Scientific Publishing Been Disrupted Already?

1991年にTim Berners-LeeがWebを作ったとき、Webの目的は、科学コミュニケーションの促進と研究結果の流通だった。言い方を変えればこうなる。
Webは、科学出版を崩壊させるためにデザインされた。書店や電話会社、出会い系サービス、新聞会社、ポルノ、株式取引、音楽流通などを潰すためではなく、科学を広めるために作られた。

ジャーナル 初期の役割

ジャーナル(学術論文誌)は、流通と登録という、2つの問題を解決するために生まれた。

流通

ジャーナルは、科学的な発見や説明を頒布するために考案された初めての、そして何より大切な手段だった。1665年にJournal des sçavansPhilosophical Transactionsが初めて出版される以前、科学者達は手紙を送り合ってコミュニケーションを図っていた。しかし1655年になる頃には、この方法でやりとりし合うには、科学者の数が増えすぎていた(科学者というか、教育を受けて「natural philosophy」に関心・見識を持つ知識人男性の数が増えすぎていた)。そこでとられた解決策が、全ての科学者に頼んで、手紙をあるひとりの人間(Philosophical TransactionsでいえばHenry Oldenburg)に送ることだった。そうして手紙を受け取った人物は、手紙の束をを組版(typeset)、印刷(printing)、製本(binding)して、ジャーナルと呼ばれる新しい形にまとめ上げ、それを他の(購読している)科学者にまとめて送った。

17世紀の時点で、ジャーナルは流通に関する問題を解決するための素晴らしい発案だった。しかし今日では、流通はもうさしたる問題ではなくなっていると言って良いだろう。インターネットとWorld Wide Webのおかげで、我々は誰でも、公共の場所に置かれたウェブページにアクセスできる(ここでは課金に関わる議論はしない)。もし流通問題だけがジャーナルに科せられた課題であったら、ブログやarXivのようなプレプリントサーバー、Scribdのようなドキュメント・アグリゲーションサービスの登場で、ジャーナルはとっくに淘汰されていただろう。

登録

自分があることを発見したぞと公式に宣言する登録媒体としての側面も、ジャーナルの初期の役割のひとつだった。皮肉なことに、Philosophical Transactionが創刊されたのは、科学史に悪名高い出来事があった時期と近しい。つまり微分法をニュートンとライプニッツのどちらが先に見つけたかという論争のことだが、これはニュートンが微分法を発見してOldenburgのPhilosophical Transactionでうまく主張できなかったことに端を発する。1723年に論争が収束するまでの間、ニュートンとライプニッツはそれまでの、そしてそれ以降の誰よりも「登録」することの必要性を奨励するようになった。ニュートンの発明について、Oldenburgは良いマーケティングのシナリオを書くことができなかったのだ。

発明・発見の登録機構としてのジャーナルの存在意義は、今ではほとんどないと言える。論文投稿の日付と時間を記録するプレプリントサーバーは、ジャーナルで出版するのと同じ登録機構を持っている。さらに、最近ではDOIを付加することにより、論文投稿の日付情報を与えるだけでなく、投稿後の内容書換えを防止することもできるようになった。

代替の効かない機能

つまり、これまでジャーナルが解決していた「流通と登録」という課題は、今ではジャーナルがなくても解決できる。しかしジャーナルは長い時代をかけて、それ以外の機能も担うようになっている。その機能とは「査読、フィルタリング、業績評価」だ。

査読(コミュニティによる承認)

今では多くのジャーナルが実施している査読だが、科学ジャーナルの黎明期にはそれほど一般的ではなかった。ジャーナルのエディターが投稿論文に目を通す一方、外部の専門家に論文を送って評価してもらうという習わしが定着したのは、20世紀後半になってからのことだ。やや遅めの誕生ではあったが、査読は今ではジャーナル出版システムの主要機能となっている。なかには査読がジャーナルの存在理由そのものだという人もいる。

一方で、いろいろ問題の提起されている査読制度を変えようという動きも色々行われていて、"E-Biomed"のように出版後査読(post-publication peer review)の試みがあったり、arXivのようなオンラインシステムを査読と結びつけるアイデアや、その流れとしてPLosOneのような例もある。(この段落、かなり要約)

(参考リンク1「査読を定着させた男、Sir John Maddox*1、参考リンク2「RINによる査読ガイドライン(pdf)*2

フィルタリング

1665年時点では、科学情報を追いかけるのは易しいことだった。科学ジャーナルは2誌しかなかったのだから。しかし数世紀が経ったいま、事情は複雑になってきた。2009年時点で、査読済みSTMジャーナルの数は10,000誌以上、出版論文点数は100万点を超える。自分野の論文を追いかけるのは大変だが大切なことだ。情報の大海から自分に必要なものをフィルタリングするため、ジャーナルは重要な役割を果たしている。

ジャーナルが提供するフィルターには、次の要素がある。

  • 範囲。Nature, Science, PNASのような広範囲をカバーする学術誌と、ある特定の分野 (microbiology, neuroscience, pediatrics, etc.)を広くカバーする学術誌。新しいジャーナルはある分野から枝分かれして、より特化した内容になることが多い。
  • 評判。インパクトファクターだけではなく、科学者コミュニティの間での評判が、忙しいときにそのジャーナルを読むかどうかの判断材料になる。

これについても色々な試みがされてきたが、ジャーナルのフィルタリング機能を代替するものは今までなかった。しかし今後の可能性として、セマンティック・テクノロジーを使ってより洗練されたフィルターが実現できるかもしれない。しかし、これは科学出版の崩壊を招くものではなく、既存のジャーナル出版システムに新たな議論を引き起こすものとなるであろう。(この段落、かなり要約)

業績評価(Designation)

科学ジャーナルが有する3つ目の機能は、おそらく他の方法での代替が最も難しい「業績評価(designation)」である。多くの学術機関・研究機関が、科学者の昇進評価において出版実績を参考にしている。さらにいえば、研究助成団体が表彰を行う際も、科学者の出版実績という要素は使われている。
科学者が論文を出版するジャーナルの評判は、昇進評価や助成金支給の可能性に直結している。つまり出版実績というのは、科学活動にとって甚大な影響がある。現在の構造が終焉を迎える前に、なんらかの代替手段が開発・定着される必要があるが、現時点では有力な代替案は開発されていないし、信頼できるような試みも見当たらない。

(ジャーナル全体を評価する)インパクトファクターではなく、論文自体を評価しようという試みはいくつか行われている。このような論文中心の評価基準が広く受け入れられるようになれば、いずれジャーナルは昇進評価や助成金支給への影響力を失うであろう。論文中心評価への動きは、出版物(ジャーナル)中心の現状からの独立を意味する。しかしこのような変化は少なくても数年のうちでは起きそうにない。起きるとしても数十年単位の話だろう。

新しいテクノロジー

・・・というわけで、私(Michael)は科学出版が近い将来に崩壊することはないと考えている。しかし新しいテクノロジーが今までとは全く異なる新製品・サービスを作り出し、現存の科学出版システム(を壊すのではなく、その上)に乗っかるような、または隣に座するような状況は次第に訪れつつあるのではないか。

これから述べる3つの技術は、間違いなくこれから先10年の科学コミュニケーション環境を変えるだろう。さらに他にも、私が考えつかないような技術があるかもしれない。

セマンテック・テクノロジー

ChemSpiderのような、新しい専門家用アプリに使われているセマンテック・テクノロジーは、科学者の情報収集を効率にするに違いない。セマンテック・テクノロジーはWolfram Alphaのように効率的な検索ツールを実現する。つまり科学者は、今までより早く必要な情報を見つけられるようになる。

モバイル・テクノロジー

モバイルテクノロジーにより、どこにいても情報にアクセスできるようになっている。GPSシステムやカメラやWebのおかげで、携帯端末は世界との関わり方を変える可能性を秘めている。
Scholarly Kitchenで私(Michael)が以前書いたように、科学者と科学情報流通にとって、実世界のモノに(バーチャルな)データを重ね合わせることには大きな可能性だ。ウェブと実世界の融合は、次の10年の科学コミュニケーションに大きく貢献するだろう。

参考リンク「アメリカ化学会(ACS)のiPhoneアプリ ACS Mobile*3

オープンデータ・スタンダード(Open Data standards)

現在各所でつくられている最中*4のオープンデータ・スタンダード(科学研究における生データをどのようにオープンにするかの基準)は、データセット、ひいては新しい科学ツールに大きな相互作用性を与えることになるだろう。さらにオープンデータ・スタンダードは全く新しい課題を引き起こす可能性もある。ティム・バーナーズ・リーが昨年TEDでのスピーチで指摘したように、重み付けアルゴリズムを使った検索エンジン(GoogleやBing)は、他の人が過去にしたのと同じような調べ物をするときに最も有効に働く。リンクされたデータ、つまり相互作用性のあるデータは、科学情報そのものから情報を引き出すことができるようになる。これは今までの科学情報ではなかった、まったく新しい影響を及ぼすようになるだろう。(最後の一文、かなり自己解釈)

(Science Commonsにも、研究活動で得られたデータをオープンにしましょうというプロジェクトがある。サイエンス・コモンズ日本語翻訳プロジェクト、やってます*5。)

*1:参考リンク1:査読を定着させた男、Sir John Maddox。http://d.hatena.ne.jp/kany1120/20090505/1241493722

*2:参考リンク2:RINによる査読ガイドライン(PDF) http://www.rin.ac.uk/system/files/attachments/Peer-review-guide-FINAL-March10.pdf

*3:参考リンク:アメリカ化学会(ACS)のiPhoneアプリ ACS Mobile:http://buzzapp.jp/apps/355382930/ACS%20Mobile/

*4:いまいちどこでdevelopingされているのかがわからない。アメリカ発のニュースでは議論になっている様子がうかがえるが、逆にいうとアメリカくらいでしかまともに議論されていないような気もする? http://www.readwriteweb.com/archives/how_google_buzz_is_disruptive_open_data_standards.php

*5:サイエンス・コモンズ翻訳プロジェクト:http://sciencecommons.jp/