リスク・リテラシーが身につく統計的思考法


翻訳がちょっと硬い+冗長なところが多いけど、具体例豊富で面白かった。第1部・第3部は原著にも目を通したい。

この本を読んだ後に病院に行ったら
1 Singapore woman dies in every 5 days because of cervical cancer(子宮頸癌)
というポスターがあって、(この本で批判対象にしている)パーセント表記ではない、しかし不安をあおって誤解を招く表現だなー・・・と思った。見回してみると、病院に貼ってあるポスターってこういうのものが多い。統計情報を使いながら、母数や集計方法・計算方法の記述がないものは、だいたい政治的なものやマーケティング的なものと思ったほうがいいんだろう。

第1部 知る勇気

2章・確実性という幻

政治やマーケティングのキャンペーンは、幻の確実性が生まれたり消えたりするのは個人の心だけではないことを教えている。(略)そういうメッセージを聞きたがり、信じたがり、社会的な権威に屈服したがるクライアントなど、多くの関係者が確実性の想像と売り込みに関与している(略)たとえば居ぇーるだいが苦ロースクールのジェイ・カッツ教授は、外科医の友人と乳がん治療につきまとう不確実性について議論したときのことを語っている。議論のなかでは2人とも、どの治療法がベストなのかは誰にもわからない、ということで一致した。ところがカッツが友人に、患者には同説明するのかと尋ねると、友人は先日の乳がん患者には思い切った外科手術がベストだといって、ぜひとも手術を受けるべきだと思わせた、と答えた。(略)どうして突然、ベストな治療法にそれほどの確信が持てたのかすると友人は(略)患者たちは治療法選択には不確実性がつきものだという事実を受け入れることも理解することもできないだろう、と答えた。彼に言わせれば、患者は確実性と言う幻を欲するものだし、その患者はその幻を手に入れたのである。

B医師 インフォームド・コンセントとという議論はずれていると思いますね。医師と患者の話し合いは儀式ですよ。この儀式の中には、ぎようせいが入り込む余地はないんです。
(略)
医師会会長 患者は安心したがっているんです。不安から開放され、正しい手に委ねられていると思いたい。たとえ状態が前よりは良くならなくても。自分の苦しみに貼るレッテルが欲しいのです。患者の不安を取り除いてやる医師は良い医師です。(略)

イマヌエル・カント「啓蒙とは何か?」から)啓蒙とは、自分で自分に課した未熟から立ち上がることだ。未熟とは、よそからの指導なしには自分の理解力を行使できないということである。この未熟さは、その理由が理解の不足にあるのではなく、よそからの指導なしに自らの理性を用いる勇気のなさとためらいにあるとき、自ら課したものとなる。知る勇気を持て!

(略)
個人にとっても社会にとっても、不確実性に耐えて生きることを学ぶのは厳しい仕事だ。人類の歴史の大半を動かしてきたのは、紙や運命が自分たちの血族、人種、宗教に再校の価値があると決めたと信司、したがって対立する思想を、その思想に毒された人間もろとも滅ぼす権利があると思い込んだ人々だった。現代社会は不確実性と多様性に対する許容力を広げる方向へはるかな歩みを続けてきた。だがた私たちはいまもなお、カントが思い描いたような勇気と知識のアル存在には程遠い。この目標はラテン語ではたった二つの言葉で表される。Sapere aude-「知る勇気を持て」である。

3章・数字オンチ

喫煙問題は、健康被害への一般市民の認識が二重の防衛線によってどう薄められていくかを教えてくれる。第一に、確実性の幻が作り上げられる。喫煙は安全だ、おしまい、というわけだ。この幻が崩壊すれば、不確実性が認識されるが、今度は実際のリスクが判明しているかどうかについて疑いが広められる。

検査の効果を示すときの3つの方法。

  • 絶対リスク減少率
  • 相対リスク減少率
  • 要治療数

同じものを示していても、見え方は全然異なる。相対リスクだと「22パーセント低下」が絶対リスクだと「0.9パーセント低下」になり、要治療数だと「1人を救うために治療しなければならない患者数は111人」。

4章

条件付確率は、人間の推論を妨げる傾向があるが、自然頻度ならよけいな計算がいらない

たとえばパーセントでかくと
「これらの女性の1人が乳がんである確率は0.8%。また乳がんであれば検査結果が要請である確率は90%です。乳がんでなくても、陽性と出る確率は7%あります。ある女性の検査結果が陽性と出ました。この女性が実際に乳がんである確率はどれくらいでしょうか?」

これを自然頻度でかくと
「女性1000人あたり8人が乳がんにかかっています。この8人の女性のうち7人は検査で陽性と出ます。乳がんではない992人の女性のうち約70人はやはり陽性になります。ある女性の検査結果が陽性と出ました。この女性が実際に乳がんである確率はどれくらいでしょうか?」

ずいぶん印象が異なる。実際に医師に対して同じ問題を出した場合でも、回答はかなり異なったものになったという。パーセントで書いた場合、24人のうち8人が「90%」、他の8人が10-80%のどれか、残り8人が10%と回答。いっぽう自然頻度で書いた場合、24人中19人が20%以下と回答。

実生活で不確実性を理解する

6章

(19世紀のフランスの生理学者クロード・)ベルナールに言わせれば、平均は個々のケースを決定する法則の代わりにはならず、真の決定論者はそんなものは相手にしない。これらの法則を発見するためには統計ではなくて実験が必要なのだ(略)19世紀にはまだ、統計データは科学的方法とは対極にあると考えられていた。科学は確実性に関わり、統計は不確実性に関わる。ゆえに統計は適切な科学的ツールではない、というわけだ。(略)物理学とは違って、医学的診断と治療の領域では統計的思考の出現には時間がかかった。

ベルナールが統計と実験のあいだに置いた溝は、1920,30年代になってイギリスの統計学者サー・ロナルド・フィッシャーが「科学的メソッド」と呼ぶもので統計と実験を結びつけたときにようやく埋まった。医学統計の専門家オースティン・ブラッドフォード・ヒルはフィッシャーのランダム化対照実験の手法を医療分野に応用し、この功績により1961年にナイトの称号を授けられている。

フィッシャーといえば、岩波の和訳本「統計的方法と科学的推論」が名著(でも絶版)という話は聞いた事がある。
フィッシャーの「統計的方法と科学的推論」の訳者解説が素晴らしすぎる(その1) - Take a Risk: 林岳彦の研究メモ

エール大学の医師ジェイ・カッツ著「医師と患者の沈黙の世界」が出版されたう1984年には、外科医はほとんど例外なく、自分の身体に怒る出来事に着いて患者にも発言させるべきだというカッツの見方を攻撃した。芸術家としての医師というすばらしいイメージは、十分な情報をもった成熟した患者と言う考え方とは相容れなかった。

「芸術家としての医師」だなんてうんざりする考え方だが、確かに実際的に「医者が言うことが正しい。手術するしかない。よろしくお願いします」という流れは芸術家に対する態度となんら変わりない。

同じく6章でインフォームド・コンセントの理想を阻む制度的制約をあげていた。どこも似たような状況だろうことは想像できるので、あまり医者を頼る気がしない。でもいざとなったら頼るしかない。

  • 分業
    • 検査を実施する医者は、その後本当に(例えばがんが)検出されたかどうかを知らないのがふつう。医師のほうには数字を追跡調査しようと言うインセンティブがあまりない。
  • 法的・金銭的なインセンティブ構造
    • 医師が最も恐れる過誤はがんを見逃す事。同じ謝りでもがんの確率を過大評価する側に傾けば、がんを見逃すことはめったにないから、医療過誤訴訟から身を守れる。またこの方針だと追加的な診断や治療のおかげで病院の収入が増える。しかしこれだと患者の金銭的コストは増えるし、偽陽性(本当は陰性なのに、検査で陽性と判断されてしまう可能性)の率が高まる。
  • 利害の対立
    • 検査したほうが良いと言えば、友人の検査医が儲かる。逆に今まで習慣的に毎年行っていた検査についてメリットとコストを説明し、患者自身に検査を受けるか否かを決めてもらうようにすると、検査医からは恨みを買うことになる。
  • 数字オンチ
    • 多くの医師が統計的思考の教育をあまり受けていない。つまり医師自身も自分が正しいと思って誤った数字情報を患者に押し付けている可能性がある

8章

現在のプロ野球選手はボールをいじるのと同じように統計数字をもてあそぶ。少年たちは打率や勝率、その他の統計数字を良く知っている。ところが法廷となるとそうはいかない。学生時代に数学や統計学をできるだけ避けてきた多くの学生が法律家になる。このひとたちは条件付確率、一致確率、その他の統計的数字にはなじみがない。統計情報を自然頻度で提示する事は、裁判官傾斜が議論に価値、ほんとうの関係を見抜くために有効なはずだ。

数字オンチを解消する