中国台頭の終焉

北京出張少し前から読み始めて、帰りの飛行機で読み終えた。現在の中国がどういう状態なのかを経済的側面から、善し悪しはともかくとして、どんな状態なのかを知りたい…という目的にはかなっていた。

中国台頭の終焉 (日経プレミアシリーズ)中国台頭の終焉 (日経プレミアシリーズ)
津上 俊哉

日本経済新聞出版社 2013-01-24
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以下、抜き書き。


第2章(短期問題)から

中国のGDP統計は当てにならないことで 「定評」がある。次期総理と目される李克強氏も遼寧省書記をしていた2007年頃、駐中国米国大使に 「経済評価で注目するのは、電力消費量、貨物輸送 量及び銀行融資の3データだけ。GDP統計は 『人為的』で 『参考用』にすぎない」と語ったとされる (ウィキリークス情報)。

統計データが当てにならないとは知って/思っていたが、いっぽう粉飾しにくいデータもあって、それが電力消費量、貨物輸送料、そして銀行融資額の3つなわけだ。
データが信頼できない理由にも触れていた。地方間競争のせいで地方から出される数字があてにならないこと、そして国家統計局が調整を加えていると見られることの2点。

第3章 中期的な経済成長を阻むものから

いまの中国経済モデルは 「国家資本主義」と呼ばれ、その特徴は次の3点に集約される。
1. 政府及び国有企業 (両者合わせて広い意味での「官」)が多くの経済資源と富を支配・所有している。

2. 経済活動のジャッジ (審判)としての政府に、広範かつ強力な許認可権限、莫大な予算(中央と省級政府)、さらには土地の配分権など、他の国に例をみない強力な経済権限が集中して、資源配分をコントロールしている。
3. 政府がジャッジのみならずプレイヤーでもあり、重厚長大産業や金融、通信など多くの基幹産業を国有企業が独占している。

ぱっと読んで、日本に近しいなと思った。NTTや郵政公社の民営化など、中国よりは民間への委譲がずっと進んでいるけど、根底に流れるものは近しい気がする。数十年遅れの日本というか…。
それから「政府がジャッジのみならずプレイヤーでもある」という状態が終わらない限りは、競争力は上がらないだろうなと思った。本書も同じ事を述べていて、90年代後半に中国政府が掲げて、その後うやむやになった「民進国退」を再開・推進しなければ中国の競争力は付かないと繰り返し述べている。
しかし現在の中国では、広がる格差に反発を抱き、外国に対して警戒感を抱きつつ国有企業を擁護する右派(政治的ナショナリスト的な態度を取る層)が勢いをつけてきているという。

それにしても受益し損なった階層、いわば 「被害者」がよりによって最大の既得権益、加害者 でもある国有セクターを擁護するとは......やりきれない思いがするが、シカゴ大学のラグラム ・ ラジャン教授が著したSaving Capitalism from the Capitalistsとぃぅ本 (邦訳 『セーヴィングキャピタリズム』慶應義塾大学出版会、2006年刊)を読んで、それがあながち奇怪とも 中国特有の現象ともいえないことを知った。同書には既得権益の受益者が権益を守るためにメディアを動員したりして、大衆が改革に反対するように仕向けてきた事例が、世界各地の様々な時代に普遍的に存在することを指摘している。「独立学者」氏の逸話は、同書が指摘した現象の最新事例として記憶されるだろう。


第4章 新政権の課題(1)国家資本主義を再逆転 から

地方政府の暴走を停めよ、と著者は説く。

地方政府が主導する投資の問題点は何か? 投資家や銀行と地方政府の目線を対比して考えると分かりやすい。
成熟経済に生きる成熟企業は自社の資金、つまり会社に貯まったフリーキャッシュの範囲内で 投資をする会社が多いから、銀行が持つ影響力は限られる (逆にいうと、日本でも「メーンバンク制」がまだ生きていた高度成長期の銀行の影響力はこんにちの比ではなかった)。投資家の目線も外部資金を必要とする新興成長産業に注がれる (成熟産業でも「企業再生」は対象だが)。
しかし、高度成長期に企業が 「フリーキャッシュの範囲内で」などといっていれば、直ちに競争から落伍してしよう。設備投資、運転資金ともに資金需要が旺盛だから、融資 (デット)で調達するにせよ投資 (エクイティー)で調達するにせよ、「他人にお金を出してもらう」必要がある。
(中略)
投資家なら、業種に成長性があると認めても、日の前にいるこの人物 ・会社がベストの候補者かどうかを知ろうとする。他にもっと有力な候補者がいると分かれば、その人物 ・会社に乗り換える。しかし、地方政府にとっては、ベストの候補者であっても 「よその地方」の人物 ・企業では何の意味もない。地元出身者である必要はないが、「地元で事業をする企業・人物」であることが必須である。たとえそれが 「次点」の候補であっても、事業成功の「可能性」があれば、地方トップはその候補に賭けるだろう。
(中略)
つまり、投資するかしないかの判断が 「中立」でなく、万事 「何とか我が市に 『おらが○○業』 を設立できないか?」なのだ。ここが投資家・銀行と地方政府の最大の違いである。

これに加えて、中国の地方政府が関心を持つ投資先はどこも似たり寄ったりなので、中国が重点産業として集中投資を行うと(中国の経済力が大きくなった今では)投資過剰・供給過剰の影響が世界的な大きさで引き起こされる。中国の各地方都市がこぞって投資した結果、太陽光発電パネルの値段が急落して欧米のベンチャーが倒産した…という2010-2011年の現象が具体例として挙げられていた。

この章の後半では第3章と同じく、産業の国家独占を打破して、民間企業に市場を開放するよう提案している。

第5章 新政権の課題(2) 成長の富を民に還元

米エール大学の陳志武教授は、リーマン・ショックの前、『財経』誌2008年7月7日号に 掲載された 「私有化推進により経済構造転換を」と題する論文で次のように論じた。
1. 中国経済は投資が過剰、輸出に過度に依存、サービス産業は発育不全で、消費が弱い。今後は ハードからソフトヘ、重厚長大から軽薄短小へと経済構造を変えていく必要があるが、これがなかなか進まない。

2. その大きな原因をなすのは、ざっと116兆元と推定される中国の国富の実に4分の3が広義の政府の手にあるという事実だ (2012年に経済学者有志が行った国家資産・債務の推計によると200兆元、邦貨換算約3500兆円)。
3. 高度経済成長により国民の衣食住の需要はある程度満たされた。今後はサービスの需要を拡大させ、国民経済に占めるサービス産業の割合をもっと高めていくべきだが、急速に増大したこの国富を国民に分配しないままでは、サービス需要の拡大も多くを望めない。
4. 国富増大による資産効果のあらかたを政府が独占していることは、なぜ中国が重工業のような ハードにばかり投資するかも説明してくれる。政府はそういう投資の方が好きなのである。さらにいえば、今後伸びるべきサービス/第3次産業のうち電信、教育、医療など重要なサービス産業で政府の独占が続いていることも産業の発達を妨げているといえる。
5 以上のような観点からも、中国経済の構造改革を進めていく上で、経済の私有化をもっと進めるべきである。

国の資産の4分の3が広義の政府に所有されているとは!びっくりした。良い生活をしたいなら公務員にならなければならない……そういえば日本でもよく聞く言葉のような気もする。この章では、公営企業なら税金をほとんど収めなくて良いいっぽう民間企業には重税が課されている等、「国進民退」状態になっていることを指摘している。

第6章 民営企業の退潮

企業の負担は 「税と費用」にはとどまらない。例えば、最近は許認可も 「科学的」になってき て、各種の監査、鑑定、評価報告等の添付が義務づけられている。許認可手数料自体は安いものだが、そういう添付報告を政府系の事務所や研究機関に委託する費用がバカにならない。私も経験したが、ひな形のフォームに数字や固有名詞を入れただけの「報告書」一件で軽く10万元、20万元が飛んでいく。例えば、ある許認可が得られれば400万元の売り上げ増加を期待できる、しかし許認可を得るには20万元の報告書を 「買わないといけない」とする。それはサービス業なら、 5.5%の営業税がもう一回かかるようなものだ。

日本でも聞いたような話……

2012年2月に突如起きた重慶市薄熙来元書記を巡るスキャンダルは衝撃的だった。ネットやメディア報道には、薄が重慶で進めてきた 「唱紅打黒」(革命歌を歌い、反社会勢力を打倒する)運動の暗部を暴露する記事が溶れた。ポピュリズムに頼って出世を狙った薄の野望は結局挫折したが、一連の事件は民営企業家など 「中の上」以上の階層に甚大なショックを与えた。
第一に、文革時代や毛沢束を懐かしむ 「唱紅」運動の盛行により、郡小平が始めた改革開放に 対して、「中国を発展させた」善なる側面よりも 「貧富の格差や腐敗を生んだ」邪悪なる側面の 方を重くみる大衆が広汎に存在することが分かった。「文革が中国の発展に大災厄をもたらしたことは現代中国の常識だ」と思 っていたら、「いまやそうでもない」というのだ。
第二は、薄の前任者たちの部下や彼らが親しくしていた経済人が受けた迫害の無法ぶりだ。彼 らは薄や子飼いの王立軍副市長から 「黒社会 (反社会勢力と だと決めつけられ、法を無視した 手続きで投獄され、あるいは財産を没収されたことが明らかにな った。
(中略)
財産が懲罰として没収され、薄が進めたい事業の財源に充てられたというのも衝撃的だ った。 改革開放が本格化して以降、中国では 「私有財産権の保護」が叫ばれるようにな った。90年代に 成功した私営企業主には 「財産を没収されるのではないか」という不安感が絶えずあり、苦労して築いた財産を海外の安全な場所に移したいという願望も強かった。
(中略)
しかし、薄が企業家の財産を平然と没収したことは、憲法の保障の無力さを思い知らせた。司法制度も被害者たちの権利の保護に役割を果たさなかった。大衆に 「他人の富裕を憎む」気持ち が強いことも明らかになった

重慶の薄元書記関連のスキャンダルは、The Economist誌でもたくさん報道されていたけれど、ちゃんと追わなかったので何故そんなに大事なのか理解していなかった。この項を読んで、市場経済主義の基礎となる「自分の財産が守られる権利」が中国ではまだ認められていなかった…ということが白日の下にさらされたから、市場自由主義の立場であるThe Economistがこの事件を大きく取り上げていたのだと理解した。そしてその影響で、中国の富裕層で国外流出を検討する人が増えたということも。


第7章 新政権の課題3 都市・農村二元構造問題の解決
本書のなかで最も衝撃を受けたのはこの章。中国関係の仕事をしている人には常識なのかもしれないが、知らない自分は驚いた。21世紀にあっても中国国内には経済的な格差だけでなく、身分的な格差が厳然と制度として残っているという。

農民はそうして新中国の経済建設に大きな貢献をしたのに、一貫して都市住民とは差別された「二等公民」として遇され続けた。それだけでなく、都市と農村という「空間」も一国の中で別々 の土地制度の下に置かれた。このように住民と空間 (土地)が、都市住民と農民、都市と農村の二つに仕切られている現状を「都市・農村 (城・郷)二元」構造と呼ぶ。
(中略)
こんにち、農民という 「人」に関する差別は二つある。第一は、都市住民と農村在住の農民の間に存在する制度的差別である。中国が経済発展で豊かになるにつれて、専売制は1983年 に、農業税は2003年にそれぞれ廃止されるなど、農民を収奪する仕組みは徐々に解消されていった。しかし、その間、都市では教育、医療、就業 (失業保険)、住宅、生活保護、養老などの行政サービスが整っていったのに、農村は取り残された。
(中略)
農民という「人」に関する二つめの差別は、都市で暮らす元農民に対する制度差別である。(略)農民が都市に定住しても都市戸籍に入ることが難しいのは、ほとんどの都市が「持ち家が条件」といった経済ハードルを課して都市戸籍入りを制限しているためだ。正規の住民と認められない農民戸籍者は、都市に住んでも医療面、子弟の教育面など様々な差別を受けている。通院や入学が認められても、都市住民より余計な出費を強 いられる。割高な授業料を払って都市の高校で学んだ子供が大学を受験するにも、都市ではなく原籍地から出願するほかないし、そこでの合格ハードルは都市より高い。
この面での農民差別は都市戸籍の紙一枚だけ交付しても解消しない。彼らを都市住民に組み込むには、教育、医療、住宅、生活保護、養老などの各種行政サービスを都市住民並みに提供する必要がある。農民差別の根っこは地方財政問題なのである。
この10年間に都市常住人口は全国で5割増大したのに、都市の予算も制度も、これら流入農民工や 「農民二世、貧困二世」(農二代、貧二代)と呼ばれるその子弟たちを考慮に入れて組まれ てこなかった、あるいは現実に追いつけていないのである。

この本を読んでいる限り、農村から都市部に出るのもシンガポールに出るのも大差ない気がした。いっぽう日本国内で、たとえば北海道から東京に出てくるのは、文字通り「自由」だ。家族や友人がいなかったり言葉が少し違ったり地理がわからなかったりして苦労することはあるけれど、公共サービスはほぼ同じものを受けられる。同じ国の国民なのだから、日本ではそれが当たり前。しかし米国と肩を並べて「G2」なんて言われつつある中国には、そんな自由・平等すらまだない。

21世紀に入って10年以上たっても都市戸籍者と農民戸籍者という身分制度が生きている、それが中国。改善に向けた努力はあるというが、まだまだ追いついていない。13億人いる国民のうち約3分の2が農民戸籍者だというので、ざっくり数えても9億人以上の社会保障費等々を支払えるような財政を実現しなければならないわけで、なかなか大変だとは思うが……。

つまり、都市 ・農村二元構造問題は、用地面でも都市化を制約する要因になっているのである。先に「二等公民」扱いされている農民への公共サービス水準を高めて、都市住民と農民の二元構造を解消しないと都市化の流れが阻害されることを述べた。同じように、農村用地→都市用地の転換プロセスと、そこで生まれる差益分配の問題をうまく解決しないと、やはり都市化の流れは阻害されることになる。
いずれの対策にも、変わることを嫌がる制度自身の慣性抵抗や既得権益グループからの抵抗が予想される。中国に限らず、どこの国でもこの種の改革は難事業であり、徐々に漸進的に進めていく方が実際的だろうが、高齢化社会と成長率の低下を間近に控えた中国には時間が残されていないことが問題である

社会を変えるには時間がかかる。


第8章 少子高齢化(長期問題)

「一人っ子 (計画生育)政策」は、いくつもある中国の「政策の謎」の一つである。早い遅いの差はあれ、日本、韓国、台湾、ASEAN諸国と、周辺東アジア諸国が 一様に高齢化に向かい、対策に苦慮しているのに、ひとり中国だけは相変わらず 「一人っ子政策」を継続している。「やがて超高齢化を経験するのは確実だ」と内外でいわれても、止める気配がない。「このままで大丈夫なのか?」同じ疑間を持たれる方は日本でも多いだろう。
原因は二つ考えられる。第一は「人口増は悪」というマルサスの「人口論」的な見方が中国で支配的なことである。中国の人口問題第 一人者、社会科学院人口・労働問題研究所察防所長からも「第12次五ヵ年規劃草案審議の頃、国家指導者レベルに一人っ子政策の軌道修正を訴えたが、『人口増は悪』の観念が強く、容れられなかった」との回顧を聞いたことがある

The Economist誌でも何度か「一人っ子政策をやめよ」という論調の記事を見たことがある。しかし少子化問題が深刻になってきているのにも関わらず中国政府が一人っ子政策をやめられない原因は、なかなか根深いものがあるようだ。
上に述べられている社会的な慣性抵抗に加えて、中央政府、さらに地方自治体の既得権益の問題が大きいという。ここにも肥大化した「官」の弊害が出ている。

この章では、中国政府や国連人口部の世界人口推計(WWP)の妥当性に疑問を呈した著者が、独自の人口推計行っている。データは、中央政府により公開されている2010年統計表を使っている。「やってみる」の精神。

そして人口ボーナスと人口オーナスについての解説をした後、中国は日本と同じような人口ボーナスの恩恵を受けており、それはつまり日本が現在進行形で体験しているような人口オーナス現象=生産年齢人口一人当たりの生産性は上がってもGDPは頭打ちになってしまう苦しい状態を中国も味わうことになるだろう…と警告を発している。人口ボーナス効果とは、

第一は労働投入の増大
どの国も成長期に入ると出生率が低下し始める。しかし、その後しばらくは、労働年齢とみなされる51歳に達する人口が高水準で推移するため、労働投入量は増加し続ける。また、年少人口の割合が低下する一方、高齢人口の割合はまだ低いため、生産年齢人口比率が上昇する。これが労働投入量の増加による成長加速をもたらす
(略)
第二は、貯蓄を媒介とする資本ストックヘの効果
生産年齢人口が増える→社会全体の貯蓄額増加→出生率が低下して養育負担低下→さらに貯蓄増大→豊富な労働力により賃金は低く留まる→企業の内部留保増加
第三は全要素生産性の増大
出生率の低下とだいたい時を同じくして、インフラや社会制度の整備、教育水準の向上、衛生状況の改善による労働者の健康状態改善などが進み、これら経済・社会の発展が全要素生産性の向上をもたらす。
(中略)
他方、人ロボーナスの後ろでは 「人ロオーナス」と呼ばれる対照的な現象が起きる。ある時期を過ぎると上記の効果が反転、喩えていえばバックギアが入ったように、今度は成長にマイナスに作用する

日本と中国の経済成長の時差は約4年あったが、少子高齢化の時差はわずか15年。「未富先老(豊かになる前に老いる)」との警句がいわれる所以である。私が「中国がGDPで米国を抜く日は来ない」と感じてきた最大の論拠は、今回の2010調査の詳報で、はしなくも証明されてしまった感がある。

と結んでいる。先の事は誰にもわからないが、人口が増え続けるから経済が成長し続ける…という法則でいえば、中国の先行きは決して明るくないことがわかる。
(脇道。シンガポールの移民問題論争を見ていると、経済成長するには人口増加が欠かせないのなら、資本主義とはなんと持続性のないシステムであろうか…と思うことが多い。机上で計画した通りに経済成長を果たしてきたシンガポールのような国ですら、人口増に頼らない経済成長の青写真を描く事ができないということは、やはり何かが根本的に間違っているのでは……とペシミスティックな気分になる。)

第9章 中国がGDPで米国を抜く日は来ない

今後の成長にとって必要な生産性向上と同じ意味合いを持つのが、付加価値の向上だ。中国は「世界の下請」から脱却するために「自主創新」を国策とし、科学技術研究や研究開発 (R&D) 助成への予算投入を急激に増加している。中国の人材力は侮れないから、中には大きな成果を収めるものも出てくるだろう。しかし、政府主導のR&D助成や科学技術振興には、どこか違和感がつきまとう。その拠って来たるところは何かを考えると、二点に行き着く気がしている。
第一は、科学技術研究の永遠の難題、予算配分と成果評価に関わる。基礎研究やR&Dへの 「上からの」予算投入はなかなか成果につながらないのだ。(略)
きっと、平時に限られた予算を上から投入すると、純粋に研究のポテンシャルだけを基準に予算を配分するといったことが起きにくく、利権や情実、部門間のバランスとかいった「雑念」が混入しやすいのだ。中国の科学技術予算も、科学院といっ た部署、院士と呼ばれる人たちの利権や腐敗の噂が多すぎる。この分野も「官」利権の弊害を免れておらず、効率が悪すぎる気がする。

自分は科学研究の進歩に興味があるが、科学・技術研究というのは殿国でも国策に近いため政治の影響を大きく受ける。中国の「官」が肥大化し、その弊害が随所に出ているというのなら、それは科学研究についても例外ではないだろう。優れた人材がいても、制度が邪魔をしてその芽が摘まれてしまう危険性が大きいのだとしたら、とても残念なことだ。

この章では、中国の成長が今までのように続く…という楽観的なシナリオに対する、著者の疑問・懸念点がリストされている。

第10章 東アジアの不透明な未来

10世紀前半まで世界最大の帝国だった中国がアヘン戦争後の100年間、欧米や日本の侵略を受けて戦乱と貧困のどん底に転落したことで、中華民族は大きな心の傷 (トラウマ)を負った。そのせいで、過去 一世紀以上にわたって、中国人はどこか 「後れて虐められる弱国」という被害者意識や否定的な自己イメージを引きずってきた (これを「弱国心態」という)。
同時に、この屈辱の記憶は「領土・領海、主権、歴史」といった問題について、容易に逆らえない 「ナショナリズムの空気」を国内に生んだ。「空気を読む」のは決して日本特有の現象ではない (日本人は所属する集団・人間関係の万般にわたって空気を読むところが特殊なだけである)。9・11後の米国の「USA! USA!」コールがそうだったように「大きな空気」は世 界中どこでも人の思考や言動を束縛する。中国では「領土・領海、主権、歴史」を巡って「大きな空気」が生まれる。
中国人は中国の主権や領土を侵した帝国主義国を憎んでいるが、それ以上に憎んでいるのは、外敵の手先となった同胞 (漢嬉ハイジィエン=売国奴)である。古くは女真族の金に圧迫された南宋の時代 に始まり、近くは列強の侵略を受けた近代まで、漢族には 「夷狭」を敵視する排外主義の伝統と ともに、外国との和平や妥協を唱道する者を 「漢奸 (売国奴)」と糾弾する風潮が根強いのである。
この伝統あるがゆえに、中国人は「領土 ・領海、主権、歴史」を巡る「ナショナリズムの空気」 に逆らって、外国寄りの宥和的な発言でもしようものなら、「漢奸!」と非難、糾弾されるのではないかと怖れる心理状態に置かれる。周囲からの「漢奸」糾弾を恐れて、心ならずも対外強硬論に和してしまう――中国人が抱えるそんな内面問題を指す言葉が「漢奸タブー」だ。

昨今の日本を含む各国との領土問題・外交軋轢について強気の態度に出る中国政治家が多いのは、こういう背景があるという。日本でも空気を読んで強気のことを言わざるを得ない…という感はあるだろうが、歴史的コンプレックスが背景にあるのは、素人には考えが及びにくい。

結び

大方の中国人は、本書の示す中国経済の将来像に直ぐ納得することができないだろう。昭和48年 (1973年)の第1次石油ショックで日本の高度成長が終焉を迎えたとき、私は高校生だったが、社会に出る前の子供でさえ、「これからも続く」と当然視していた高度成長の終焉に大いに戸惑った。やはり思考には慣性が働くのである。

ずっと低成長、さらにデフレの国で育った自分は、シンガポールに来てしばらくインフレについて考えが及ばなかった。知識として知ってはいても、にわかには信じがたかった。「思考には慣性が働く」というのは言い得て妙だと思う。技術や社会の変化は早くなるいっぽう、人間の思考はつい今までと同じように考えてしまいがち。

日本も中国も、今後経済が少子高齢化がもたらす避けがたい衝撃に晒される。ほんとうは、どちらの国にも軍拡競争や対峙外交などやっている時間や経済的余裕はないのであり、互いに経済を傷つけ合っている尖閣後の日中関係の現状は、愚かのきわみというほかはない。

という危機感が、著者がこの本を書くきっかけだったようだ。


同じく結びの中で下記文章が引用されていた。ちょっと極論だが良い文章なので、丸ごと写しておく。

私の頭に浮かぶのは、日本にもう一度、大量の移民が到来するという将来図です。日本はもう一度、百万人以上の移民を受け入れて大混血国家になる。私はその事態を肯定するし、そのときの準備をしておかなければならない。(中略)
移民を受け入れるとか混血国家になると言えば、必ず『日本文化はどうなるのか』『日本が日本でなくなるのではないか』といった猛烈な反対論が起こるだろう。その気持ちはわからぬでもないが、(中略)日本人のルーツを縄文以前に遡っていけば、地勢学的条件の所産として、実に多様な人種、民族が混血しているのです。北方系もいれば南方系もいる。異民族交流の結果、日本人が生まれ、日本という国ができあがったのです。
大脳生理学的には、異民族が交流すると、特別な酵素が分泌し、とても優秀な心性が生まれるという。その意味で、日本が大混血国家になることは決して悪いことではない。文化の問題も当面は混乱が起こるに違いないが、二世代、三世代と世代を重ねるうちに、新たな日本文化が生まれると思う。坐して衰退する道を選ぶか、あえて活力ある国家への道に賭けるか。私は後者をとります

これは、2000年に刊行された石原慎太郎田原総一郎著「勝つ日本」からの引用だという。